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やまなし歴史散歩(2)


三分一湧水と棒道
さんぶんのいちゆうすい    ぼうみち

八ヶ岳山麓には、大水量の湧水が多い。なかでも北杜市長坂町
の清光寺から北西に5qほど上った標高1000mにある三分一湧水
は有名である。武田信玄が用水を三等分するために設けたと伝えるが、
現存の施設は1943年の水害で壊れた後に造り直されたコンクリート
製である。遊水池の中に三角石柱を立て湧水池から流れ出る水を
左右と中央の3方向に分配する。年間湧水量は300万トン(毎分6000g)
である。1985年「名水百選」に指定された。


三分一湧水がある長坂町小荒間から信州の立沢(富士見町)まで
12qの間、人家もない広い原野を突き抜けるほぼ一直線に走る道が
棒道と呼ばれている。「甲斐国史」などによれば、棒道は上・中・下の
3本があったという。「上の棒道」は穴山・若神子新田・渋沢・大八田・
白井沢・小荒間(番所あり)・立沢。「中の棒道」は上の棒道を大八田
で分かれ大井森(番所あり)・葛窪・乙事・立沢。そして「下の棒道」は
「甲斐叢記」によると、若神子・黒沢・渋沢・中丸・笹尾・小淵沢・国境の
関・下蔦木・田端(諏訪に至る道)とある。
棒道はこれまで信玄がつくらせた軍用道路との見解がこれまで支配的
であったが、資料的な根拠に乏しく研究者の間でも否定的な見解が
出されている。また棒道の存疑とは別に「甲斐国史」の棒道3本説も
資料的な根拠はなく「上の棒道」1本説も研究者の支持が強く従来の
研究の見直しが進んでいる。
棒道は今でも通行が可能である。道の脇には石仏なども見られ
春や秋にはハイキング道にいも最適である。
江戸時代末期に旅人の道標としてまた通行の安全を祈願して彫像
された石仏が1町(100m余り)ごとに並んでいる。西国三十三寺と
阪東三十三寺の観音信仰を模して作製されたが、残念ながら
阪東は十六番までで終わっている。また小荒間と白井沢集落の境に
高さ1.4mの石碑が立つ。そこには棒道が荒れたために補修を行い
「嘉永3年」(1850年)に完了した旨が刻まれている。畑の中から
偶然掘り出されたものだが正面の「衢(ちまた)神」の刻銘からすると
石碑は通行の安全を見守る道祖神であったと思われる。
(「山梨県の歴史散歩」P199より)


甲府駅前の信玄銅像




三分一湧水

手前水源から見た三分一湧水。槽に水流を三等分する三角石柱が見える

横から見た三分一湧水

1,2,3、水源、P、大荒れの碑、観音像、石造の文字加筆しました

緑豊かな公園になっています。サワグルミ、ケヤキなどが生えています。
 
右奥の穴が水源です                                       近くの畑にあった石造物

「大荒れの碑」とは昭和18年9月5日洪水による山津波が付近一帯を襲い
三分の一湧水も埋まり、その後水元「坂本家」を中心に6カ村が力を合わせて
新しい三分一湧水を造ったとの碑。後ろはその時流されてきた大岩。

「山梨県の歴史散歩」では全く触れられていないが、ここに出てくる水元「坂本家」
(信玄の家臣であったのだろうか?それとも名主の様な家であったのだろうか?)が
ここを所有し長い間水の管理をしていたようだ。写真を撮らなかったが、その坂本家
の10数代目の子孫(女性の名でした)が戦後この地を町に寄付し町はここに
三分一湧水公園を造ったとの顕彰碑も立っていました。
 
沢・高川横の歩道に立つ観音像            高川に架かる橋


          甲斐駒ヶ岳



棒 道−1
(小荒間)

起点ともいうべき東屋のある場所です

自然林に付いた「棒道」。幅1〜2m、緩やかな勾配です。想像したイメージと随分違いました

この先は幅10mが切り開かれています。ここで折り返しました

(参考)
長坂町の観光ガイド(パンフ)に載っている雪景色はこの辺りでしょうか?

東屋手前角の「棒道」の説明板です

順路を追って
 
番所跡です
 
番所から上の道                        「棒道」の説明板の角
 
東屋の所の石仏。木の右のものはかなり大きいです 
 
最初は別荘横のこんな道です
 
所々沢が流れています                  切り開かれた場所の合流点です

石仏たち

「棒道」の楽しみは何といっても石仏です。石仏を見ると何故心が安らぐのでしょうか?
何故か女性の顔に見えるのが多かったです
 殆ど左手に先が菱形の斜めの”棒”をもっています。何なのでしょうか?
2011,6,25撮影



棒 道−2
(富士見町)

6月に小荒間付近の棒道を2キロほど歩いたが棒道は
更に富士見町立沢(たつざわ)に続いているということで
やって来た。役場の人にルートを聞くとヨドバシカメラ
研修所の所からほぼR484の谷側に沿って道は付いて
いるという。
来てみると雲1つない晩秋の富士見高原は西に甲斐駒、
東に八ヶ岳が見え、カラマツの黄葉には少し早かったが
カエデや他の紅葉は真っ盛りであった。
付近にはスキー場、ゴルフ場、美術館、テニスコート、
ゆり園、日帰り温泉、ペンションなど様々なリゾート施設
がありオールシーズン楽しめそうだ。
片道3キロ、往復2時間半の旅でした。



 
ここの駐車場に車を止めさせて貰い歩き始めます                       左R484、右ヨドバシカメラの境界の芝生に棒道は付いている
テニスコートやゴルフショートコースがあり一般の人も利用できる様だ

一ツ石
6番ホールにあります(帰りに見ました)

この看板はR484の山側にあります

最初この「鉢巻トレイル」が「棒道」と思いこの細い道を仏供石のところまで歩いてしまいました。R484と棒道の間に付いています。
何故「鉢巻」なのか?R484を「鉢巻道路」とも言うらしい。

鉢巻トレイルと右R484
棒道は左のカラマツの林の中に付いていますが、一見見えません
 
夏の名残です
鉢巻トレイルにはお花畑があり所々に群生があります。左ヒヨドリバナ、右ノコンギク?(ヨメナの様なキク科の紫の花)
 
クリの鮮やかな紅葉が綺麗でした
 
ここから富士山が遠く微かに見えました                 同所から 八ヶ岳最南端 左西岳 右編笠山 11/10撮影

同所の木製説明看板(前回見落とし) 11/10撮影

仏供石上の棒道とカラマツ林。下にはササが生えています(帰りに通りました)

仏供石
 
R484の谷側に看板はありますが、仏供石は50Mほどのカラマツ林の中です
 
 所々にあります                                         付近の小公園の落葉したイチョウの黄金の絨毯が美しい   
 
日帰り温泉「鹿の湯」の建物と手前の「鹿の池」 11/10撮影                             棒道はこの先ペンション村の真ん中を通っている様だ
                                                              木立に囲まれた落ち着きのあるペンションが多い
 
棒道はペンション村から一端R484に出て、またR484の谷側を下ります
 
上の所から直ぐ下の山側にあります                         帰りはR484の舗装道を帰りました
 
以下は11/10の写真です
甲六川付近から上はR484の直ぐ脇を通っています                         甲六川手前の道標。棒道はR484の高架をくぐる
 
                         この説明看板です                    ここから(国境)先は一時旧小淵沢町に入り八ヶ岳牧場で旧長坂町に入ります

旧小淵沢町唯一の「棒道」看板かも(年代物?でしょう)。甲六川脇にあります
以上2011,11,4撮影

家に帰って考えたのは最初は千人、二千人と山梨県下に散らばっている信玄の家臣と武士団が
棒道を進む間に合流して何千人、何万人に膨れあがり150q近い戦場の川中島に1週間程掛けて
行ったのでしょう。どんな所に泊まったのでしょうか?何千人ともなれば宿泊所もないでしょう。とすると
野宿か藁で屋根を葺いた簡単な建物に寝たのでしょうか?夜空の星を見ながら寝たのかも
しれません。食事は?トイレは?と色々考えると戦いで戦死するかもしれませんし、距離も長いし、
なかなか辛い旅であったのではないでしょうか?道すがら馬鹿な話をしたり笑ったり時にはしんみりした
話をしたり唄を唄ったりしながら歩いたのかもしれません。そういう彼等を駆り立てたのは主君への忠誠心で
しょうか?武士道でしょうか?それとも報奨でしょうか???・・・・。



棒 道−3
(原村)

前回富士見町の見学を終わりR484を北に5qほど進むと
八ヶ岳美術館の所に「棒道」の看板があり降りて様子を見ます。
原村設置の説明看板と美術館入口脇に「棒道」が付いていました。
くたびれているのとデジカメの電池切れで写真は撮れませんでした。

と言うことで改めてやって来た。事前に原村役場に聞くと出た女性は
説明看板の所から右は1qくらい、左は美術館の敷地内で道は途絶えて
いるという。どうも富士見町の棒道の保存状況とは大分違う様な感じだ。





 
駐車場から矢印にそって                                         原村の「棒道」説明看板はこれ1枚のみ
最後の方で1610年藩主が定書で一端閉鎖したとの記載が気になる
 
美術館駐車場に車を止めさせてもらう                    美術館野外ブロンズ展示場
                                              毎年地元の小学生の秀作を1点ずつ加えるそうだ
 
                                      富士見町の「棒道」とはまるで違う
                                         細いしくねるしまるっきり山道だ
 
                                            500M程行くと砂利の車道を突き抜ける

その先も相変わらずの細い道だがカラマツ林やアカマツ林が爽やかだ
 
500M程行くと微かに水の流れる沢があり道が途切れる                    その道を200M上がって引き返す
原村役場の女性の話ではこの先左に行くと「献上場」なるものがあると言っていた
結論から言うと原村における棒道はまだ判明している所が少ない様だ。
江戸時代の一時中断の影響か?、命脈を保ったとはいえ中央本線の
開通などですっかり忘れられ荒れてしまったのだろう。

2011,11,10撮影
原村から頂いた資料から
 
表紙です
「神野」(こうや)とは諏訪大社の御神域の地だったから
です。信玄は諏訪を手に入れると信濃上杉攻めのため
この地を抜ける「棒道」を造りました。

非売品ですが若干残部数があるようです。2010年発行
希望者は原村役場「村ずくり戦略推進室」にお聞き下
さい。
TEL0266−79−2111(代表) ※私は切手同封で
入手しました。
・・・・・・ 原村の「棒道」は殆ど不明のようです。
信玄に滅ぼされた諏訪氏の末裔はその後家康に付き
関ヶ原でも軍功を立て再び諏訪高島藩の藩主としてそ
の雪辱を果たしました。
彼は神野の地域の新田開発に力を入れ棒道は通行止
めとされ、地元の人が山仕事位に使われるだけになった
ため不明瞭な状況になったと説明されています。

      
  
この地図によれば私が先日八ヶ岳美術館の所から下に歩いたのはどうも「本当の棒道」とは違うようです。
また八ヶ岳美術館から北はR484の谷側を北に通っていたようです。
原村の棒道ははっきりしないようですが、いくつかのポイントはあるようです。それを取り上げてみました。
  
        
私も機会があればポイントを巡ってみたいと思います






2011,11,18記


    
         八ヶ岳最高峰赤岳      
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