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やまなし歴史散歩(3)


朝穂堰と道祖神
あさほせぎ        ・


茅ヶ岳山麓は、火山灰地であるため、水の確保が難しい地域であった。
本格的な用水の開削は、江戸時代に行われた。甲州では用水のことを
「セギ(堰)」と称する。1639(寛永16年)年に着工された浅尾堰は、北
杜市須玉町江草から北杜市明野町浅尾まで、およそ12qに及ぶ。浅尾
堰の開削により、戸数37戸・石高377石の浅尾新田(現、北杜市明野町
)が生まれた。集落内の浄居寺境内に、当時の代官だあった平岡次郎
右衛門の墓と頌徳碑(文化十五1818)年銘)が立つ。
浅尾堰の竣工から半世紀後、甲府藩主の柳沢吉里(柳沢吉保の子)は、
茅ヶ岳子峰の風越山に500mの隧道を掘り抜き、浅尾堰の南への延長を
企画した。工事は1718(享保3)年に完成し、下流の穂坂村(現、韮崎市
穂坂町)の三之蔵・宮久保・三ツ沢の水田を潤した。工事費は825両で、
うち570両は領主が負担し、残りは3カ村で拠出した。この穂坂堰と先の
浅尾堰を連結したのが、総延長41qの朝穂堰(浅を朝と改称)である。山
麓の等高線に沿って、幹線道路と堰がほぼ併走しており、車窓から眺める
ことができる。

この地域の集落を歩いていて目に付くのが、「どーそじんば(道祖神場)」と
呼ぶ、石造物が集合した小さな空間である。道祖神のみならず秋葉山・蚕影
山(こかげさん)などの雑多な石碑が集められた聖域である。集落の中央に位
置する場合もあれば、集落の出入り口に位置するものも少なくない。
道祖神は集落内を更に小さく分けた組単位でまつっている。この組を「コーチ」
などと称して「耕地」の字を当てることもある。コーチは相互扶助の単位であると
同時に、信仰集団としても機能した。
浅尾新田は上道・下道・中道に分かれ、それぞれに道祖神がある。宇波刀(うわ
と)神社のある北組とよばれる集落は、計8基がまつられている。
この一帯の道祖神は祠(ほこら)タイプが主であるが、丸石や陽石を祠の中や
脇に置く例もある。(後略)
「山梨県の歴史散歩」(山川出版社)P191)より

※HP「やまなし歴史散歩」も一端は「ほぼ完」にしましたが、その後本を読み直
していたら、「茅ヶ岳山麓の風物詩ー堰と道祖神」があるのを見落としていた
ことが分かりました。茅ヶ岳は「日本百名山」の著者深田久弥の終焉の地です
が(私はまだ登ったことはありません)、近くに来ると八ヶ岳の南に目に付く大き
な山です。(いつかは登ってみたいです)
この堰の近くは昨年道を間違えて一度通ったことはありましたがその時はここ
に「堰」があるなんて全く気が付きませんでした。来てみて水田が山間に「棚田」
の様に広がり稲穂も色づいてもうしばらくすれば稲刈りではと感じましたが、今こ
こに水田があるのも350年〜300年前に先人に造られた朝穂堰のお陰で現役
で利用されています。
子供が書いた「朝穂せぎができるまで」をよむと、この地は元々水のない荒れ地で
「浅尾原」といいススキなどの生えた草地であったという。家畜のエサにする草を
刈る以外には価値がなかった様だ。重右衛門と清右衛門の2人がここに堰を造
ることを考え武田神社近くの法泉寺の大器和尚を通して甲府代官平岡次郎右衛
門に願い出たが、周りの人達が反対しているといいなかなか許可しなかったとい
う。和尚は浅尾村の人達が貧しくて葬式も出せないと懇願し8年目にやっと許可
が下りた。その後村総掛かりで3年で浅尾新田まで堰を通した。
南アルプス市の「徳島堰」と比較するとより山間にあり直線ではなく等高線に沿っ
て流れていることです。等高線に沿うということは曲がりくねるがその分広い面積
を潤すことができると思う。それと藩の企画ではなく村民自らの「自普請」ということ
も大きく違うようです。(後に代官によって維持管理の賦役が官普請となった)。米
が「貨幣と同じ」時代、新田を開発して米を増やすことは村民にとっても藩にとって
も利害が一致したと思われます。





大穴隧道付近
(韮崎市穂坂町)
 
                     今の大穴トンネル(韮崎市側から撮す)


穂坂堰を上から撮す
左・水路       中・竣工碑       右・堰出口

 
堰出口                                      水路の橋
                                             昔は木の橋でも造って水を通したのであろうか?
 
竣工碑 享保3年の銘が読みとれました

隧道を越えた明野町側の堰
(北杜市明野町)


宇 波 刀 神 社 と 道 祖 神
う  わ  と                      ・
(北杜市明野町)
 
神社入口(小さな神社です)              社殿裏の丸石(道祖神かどうかは分かりません)


「北組」角地にある「コーチ」
西国三十三番とか、いろいろあります

天保11年の銘が読みとれます
※私は神社を捜す時道を間違えて、その時「祠式の道祖神」も見た様な気がしましたが、道祖神ではなくよくある神社の祠ではないかと
考えてしまい写真も撮りませんでした。それが後から考えると道祖神であったようです。そんな訳でかなり道祖神を見落としてしまいました。
道祖神に興味のある方はそれだけを目的に訪れても興味は尽きないと思います。

浄 居 寺
(北杜市明野町)

元は武田勝頼ゆかりの寺

 
本殿                                 夢窓疎石の作風が感じられる「池泉鑑賞式」庭園


平岡次郎右衛門の墓か?(由緒書がなかった) 立派な宝篋印塔です

 
朝穂堰改修記念碑(寺入口)
S44〜52年、水漏れ防止の総コンクリート化、総事業費9億6千万円
国土庁長官金丸信氏の名が・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 斜面に広がる「棚田的」水田
稲穂が色付き黄金色に輝く
・・・・・・・・・・・・・・・・・・


朝穂堰土地改良区事務所
(北杜市明野町)※ここも訪れてみたい場所である

 
事務所(普段は無人)です                                                改修工事記念之碑
事務所の横に今の堰が流れる(幅1M位)                           S17年から始まり、戦争で中断、S27〜33年に終了



歴史は子供達に語り継がれてゆく



玄空さん=平岡勘三郎良辰の供養塔
    げんくう                        よしとき              
(北杜市明野町)・          

由緒


墓地(供養塔)全景
石塔庵は江戸時代末無住になった

 
供養塔 立派な宝篋印塔です
S24年浅尾新田村諸役免許を記念して300年大供養会が行われたという
「玄空さん」供養会は今でも行われている

2012,8,31撮影

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ほぼ完