飯野新田 |
改修後の今の堰 岸は桜並木、転落防止のフェンスが張られています。周りは水田の他モモやブドウ畑が広がる |
同近く、飯野新田の田植えの終わった水田 堰はコンクリートで固められ幅約2m、深さ1.5〜2mあります |
水門です この場所は近所の人に教えてもらいました。水量の調整や分水を行います |
随心山 了円寺(日蓮宗)は徳島兵左衛門が堰の無事完成を祈って造った寺です。 寺名は文にあるように「随心円満に終了するように」から取ったようです。 この中で兵左衛門は江戸の浪人で天文地理に優れた武士となっていて本の記述(商人)と相違します。 (※引き継いだ山崎又右衛門=浪人と混同しているのでしょうか?) 山崎又右衛門のことには触れられていません。 |
七面堂と顕彰記念碑 「徳島堰碑」1919年建立 徳島翁夫妻の墓 中に彼が造らせた七面大明神・童子が安置されている 後で気が付きましたが徳を忍んで花を供える人がいるのでしょう 以上2011,6,3撮影 |
上円井取水口 |
長坂町の棒道に行く途中に寄ってみた。場所はR20穴山橋から1.5qほどの 旧道の所から堰に沿って入り釜無川にぶつかるところにあった。 フェンスに囲まれた小公園になっていて鍵は掛けられていなったので 入れさせてもらった。そこに石碑が2つ。1つは「徳衆潤」の大きな文字。 今は亡き白根町(現南アルプス市)出身の大物政治家金丸信の筆による。 |
釜無川から引水された堰 その中間に大きな水門がある |
2つ目の石碑 いきさつが細かく書かれている。総事業費48億。昭和55年3月完成。 以上2011,6,25撮影 |
拡大→ 円右衛門像(柳蹊散人絵) |
||
拡大 甲府勤番武士学問所徴典館学頭 林鶴梁賛 |
||
県営駐車場より見るカブト岩と覚円峰方向 |
||
同・御岳新道へ下る所の案内板 |
||
仙娥滝にある昇仙峡俯瞰図 |
||
御岳新道 |
||
”現在”の御岳新道 石門 ノミで掘ったのだろうか? |
||
ノミで掘ったのだろうか? 仙娥滝下 ・ |
||
仙娥滝 1位はどこだろうか?北海道層雲峡か? |
||
清流・渓谷美 |
||
荒川の清流 |
||
浮石 大昔上から落ちてきたのだろう |
||
奇岩・珍岩 |
||
夢の松島 左カブト岩 右覚円峰 昇仙橋とよろい岩 |
||
|
赤坂口の看板 この看板は中央道高架下にあり、通りすがりのご婦人に教えてもらいました |
赤坂口出口 同出口手前 道路のある所に水が流れていたと思われます 石組みは溶岩でできていて当時のものと思われます |
手前右の松のあるご主人が家の前にいて、場所やいきさつなど詳しく教えてくれました。 この道路に沿って出口から手前に水が流れていて、ご先祖は水車小屋を持ち家業の米や 蕎麦などを挽いていたそうです。近所に水車小屋が他に2軒あったそうです。水が流れなく なった後も井戸を掘って水車を回していたそうです。小さい頃この流れで洗濯したり炊事を したり水遊びをしたりしたそうです。 |
出口下の弁天神社 掘抜完成と同時に造られたそうです 現在の東京電力放水路です ・ 水がいつまでも流れるよう祈ったのでしょう かなりの勢いで水は流れていました(鹿留というとことまで引いて発電しているらしい) |
船津口にある看板です |
取水口は掘抜史跡館(有料、数百円)となっています。Pあり) 中には入りませんでした |
犬目の兵助 |
犬目にある兵助の生家の看板です。 看板の裏は小さな駐車場、その裏は民家です。 兵助の生家は小さな旅籠を営んでおりました。 この民家に子孫の方が住んでいるのでしょう。 「義民」と書いてあることにホッとしました。 |
生家から東に300M程の所に小さな案内板があり、。その少し奥の墓地の 一角に墓はありました。「奈良家」の墓の一角です。 |
(クリック、PDFで見れます。見るにはアクロバットリーダーが必要です) この日記は訪問する前上野原市役所に兵助のことを聞いた時 でた男性が教えてくれました。個人的に興味があるのか詳しかったです。 番所の記録では兵助は「磔死」(たくし=はりつけ)となっているようですが、 兵助は逃げてしまった。文中から察するに、覚悟の一揆であったが 途中から思わぬ暴動となって所期の目的を果たせず落胆していた所 武七あたりからお前は若いので逃げろと言われて逃げてしまった。 その後巡礼姿に変装し、新潟から北陸を通って広島・山口に出 四国に渡ります。四国八十八ヶ所巡りや伊勢詣でをしています。 逃亡中思うのは無宿人を温かく泊めてくれたこと故郷の妻子のこと 野宿や路銀の少ないこと、そのつらさが滲み出ています。農民にしては 学があり、旅先で泊めてもらう代わりに算盤や字をを教えたりしたようです。 ルートは分かりませんがその後千葉県の木更津に住み、こっそり犬目に 帰って会ったり、妻子を木更津に呼んで2人目の娘を生んだようです。 晩年は娘婿が経営する旅籠の裏方を、薪割りや風呂炊き?など 人目に付かないようひっそりと暮らしたようですが、村の人は誰一人 訴える人はなかったようです。 |
森武七 |
墓は最近移転され中央道の高架下、小さな公園のなかにありました。 自然石でできていて、戒名の右下に「森武七墓」と刻んでありはっきり読めました。 |
江戸時代の一揆などの首謀者への幕府の掟は厳しく、打首が多かったようです。 武七は自首しましたが情状酌量されるわけではなく、判決が出る前に”撲殺”か 他の方法で殺されてしまったようです。 |
旧甲州街道点描 |
恋塚(江戸から20里=82.4q)の一里塚。松が植えられていたようです。 説明看板が読みずらかったのは残念・・・・。(犬目の少し手前です) |
(犬目の少し手前です) |
野田尻宿にあります |
野田尻宿は一番昔の家並みが残っているそうです |