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やまなし歴史散歩(1)

「巨樹の旅」もはや10年以上が経っている。その半分は山梨県であった。
ただ単に樹木の見学だけをするのではなく、通りすがりの風景や山、
そして史跡や神社・寺院などにも興味を持って私なりの「旅」を続けてきた。
その中で私が最近入手して読んでいる「山梨県の歴史散歩」(山川出版社)
は大変参考になりまた内容に目を見張るものがあり、私を新たな”旅”へと誘った。
その中から私なりの”感覚”でいくつかを選び「巨樹の旅」と併せて訪れる
ことにし、「やまなし歴史散歩」と銘打ってこのホームページを立ち上げることにした。
そこにはともすると忘れ去られそうな一人の”英雄”、庶民の隠れた力・功績、
庶民の信仰・精神的支えが含まれ、1つのものをやり遂げるという”山梨県人の
気骨・気概”というものが感じられてならない。

取り上げる予定のもの
○徳島堰(とくしませき) 南アルプス市、韮崎市
○御岳新道と円右衛門 甲府市
○天保騒動と犬目の兵助 上野原市、大月市
○新倉(あらくら)掘抜 富士吉田市、富士河口湖町
○棒道(ぼうみち)と三分一湧水 北杜市
○山梨県の宝篋印塔 全県→中止
※展開次第で変更あり
(2011,6,11記)
○朝穂堰と道祖神 韮崎市、北杜市
(2012,9,17追加)

北口本宮浅間神社

2011,10,18更新


とくしませぎ
徳 島 堰
つぶらのまちかみつぶらい
徳島堰は韮崎市円野町上円井から南アルピス市
曲輪田新田に至る総延長17キロの用水路で
箱根用水(神奈川県)と柳川堰(福島県)とともに
日本三大堰といわれる。
1664年江戸深川の商人徳島兵左衛門俊正が
幕府の許可を得て、翌年上円井の釜無川から起工、
途中の堅い岩盤を刳り抜き、御勅使川は暗渠で通して
難工事の末1667年に曲輪田新田まで通水した。
しかし兵左衛門は同年甲府藩の干渉などで江戸に
帰ってしまう。
工事は甲府藩が引継ぎ、城代戸田周防守が有野村
(南アルプス市)の武田家の浪人山崎又右衛門に
命じて強行し1671年に完成させた。
幕府は兵左衛門の功をを顕彰しこの堰を「徳島堰」
とし、工事の代金の一部4165両を賠償した。
この堰により御勅使川(みだいがわ)の扇状地=乏水地500fが
灌漑され、飯野新田、曲輪田新田、六科(むじな)新田が
開発された。
徳島堰はその後300年間利用されたが漏水や畑地への
灌漑に問題も多く、1965年釜無川右岸土地改良事業が
着工され、三方コンクリート化が行われ1973年完成した。
畑地の灌水面積1700fに及び近代的な果樹園地帯に
変貌させた。(「歴史散歩」P219より)


ほぼR12に沿って堰はあります
土地勘がないのでナビを「飯野新田」に合わせました
飯野新田
 
改修後の今の堰  岸は桜並木、転落防止のフェンスが張られています。周りは水田の他モモやブドウ畑が広がる
 
同近く、飯野新田の田植えの終わった水田                 堰はコンクリートで固められ幅約2m、深さ1.5〜2mあります
 
水門です この場所は近所の人に教えてもらいました。水量の調整や分水を行います

随心山 了円寺(日蓮宗)は徳島兵左衛門が堰の無事完成を祈って造った寺です。
寺名は文にあるように「随心円満に終了するように」から取ったようです。
この中で兵左衛門は江戸の浪人で天文地理に優れた武士となっていて本の記述(商人)と相違します。
(※引き継いだ山崎又右衛門=浪人と混同しているのでしょうか?)
山崎又右衛門のことには触れられていません。
 
七面堂と顕彰記念碑 「徳島堰碑」1919年建立                       徳島翁夫妻の墓
          中に彼が造らせた七面大明神・童子が安置されている          後で気が付きましたが徳を忍んで花を供える人がいるのでしょう
以上2011,6,3撮影
上円井取水口
 
長坂町の棒道に行く途中に寄ってみた。場所はR20穴山橋から1.5qほどの
旧道の所から堰に沿って入り釜無川にぶつかるところにあった。
フェンスに囲まれた小公園になっていて鍵は掛けられていなったので
入れさせてもらった。そこに石碑が2つ。1つは「徳衆潤」の大きな文字。
今は亡き白根町(現南アルプス市)出身の大物政治家金丸信の筆による。
 
釜無川から引水された堰          その中間に大きな水門がある

2つ目の石碑
いきさつが細かく書かれている。総事業費48億。昭和55年3月完成。

以上2011,6,25撮影



身延山久遠寺


                えんえもん
御岳昇仙峡と円右衛門

御岳昇仙峡は秩父多摩国立公園にあり、国の特別名勝である。
奥秩父の主峰金峰山(きんぷさん、2595M)と国師岳(2592
M)を源とする荒川の渓流が、大小さまざまな奇岩珍岩による
絶景の渓谷美をつくり出している。
この御岳昇仙峡を観光名所として世に知られるようになったのは、
天保年間(1830〜44年)の御岳新道の開削がきっかけであった。
それを行ったのが長田円右衛門であった。当時仙娥滝(せんがたき)
より上の猪狩村、川窪村、黒平村から甲府城下への道は御岳山への
参詣路の荒川右岸の険しい峰道しかなく往復は1日がかりであった。
猪狩村の農民円右衛門は叔父勇右衛門らとともに私財を投入し
近隣の村人の協力をこい、1835年に渓流沿いの新道開削に
着手した。途中大水や資金不足による中断、天保の飢饉※などによる
困難を乗り越えて1843年に9年の歳月をかけて完成した。
彼は新道の完成後も修理のための募金活動を続ける一方、高成村
腰越に休憩所をつくり、湯茶の接待をしたり、わらじを売って便宜を図り、
人は「接待亭」とか「お助け小屋」と呼んだ。自家の経営を省みず
新道開削に尽くした円右衛門の晩年は貧しいものだったという。
江戸末期甲府勤番や文人墨客らが訪れるようになり紀行文
にもその景勝が取り上げられて名勝御岳昇仙峡が広く知られる
ようになったのである。
(「山梨県の歴史散歩」P167より)

※1833年に次ぎ36年も凶作で米穀の高騰、絹織物の下落で
飢饉(天保の飢饉)が起こり多数の餓死者がでた。、窮状を訴える
一揆が1万人以上(一説では3万人以上)参加する暴動となり焼き討ちされた
家300軒以上など山梨一円に広がった。
これが天保騒動(郡内騒動)といわれるもので千人以上が
逮捕され110人以上が磔死(たくし)ないし獄死した。中断もこの
大騒動の影響が大きかったのではないかと想像する。

2011,6,1撮影
 拡大→
円右衛門像(柳蹊散人絵)

拡大 甲府勤番武士学問所徴典館学頭 林鶴梁賛

県営駐車場より見るカブト岩と覚円峰方向

同・御岳新道へ下る所の案内板

仙娥滝にある昇仙峡俯瞰図
御岳新道
 
”現在”の御岳新道                                        石門 ノミで掘ったのだろうか?
  
ノミで掘ったのだろうか? 仙娥滝下                             ・
 
仙娥滝                          1位はどこだろうか?北海道層雲峡か?
清流・渓谷美
 
荒川の清流
 
浮石 大昔上から落ちてきたのだろう
 
奇岩・珍岩
 
夢の松島 左カブト岩 右覚円峰                     昇仙橋とよろい岩


県営無料駐車場  御岳新道にはここから歩いた方が無難


昇仙峡



あらくらほりぬき
新倉掘抜

新倉掘抜は1690年谷村(やむら、現都留市)5代藩主秋元喬知が、河口湖畔の
水害除去と新倉村(現富士吉田市)と周辺の新田開発のために湖畔船津口から
赤坂口に至る約4qの坑道を掘らせたものであった。工事は1701年まで
続けられ、費用は1200両・米250俵・人夫延べ4万人を費やした大工事であった。
しかし両口からの坑道がくいちがってついに通水せず工事は中止された。
その後享保年間(1716〜36年)にに再び工事が計画されたが実施されず
1847年に起きた暴風雨によって坑道の一部が発見されたのを機会に
再度掘抜工事が着手した。工事は1853年に7年の歳月・巨費と大変な
労力を掛けてようやく通水に成功した。その後も1863年に第2期工事が
行われ通水量は倍増した。このようにして1918年東京電力が県営トンネル
を使っての通水が開始されるまで水田開発に使用された。
(「山梨県の歴史散歩」P45・46より)


2011,6,12撮影


 
赤坂口の看板 この看板は中央道高架下にあり、通りすがりのご婦人に教えてもらいました

赤坂口出口                            同出口手前 道路のある所に水が流れていたと思われます
                              石組みは溶岩でできていて当時のものと思われます

手前右の松のあるご主人が家の前にいて、場所やいきさつなど詳しく教えてくれました。
この道路に沿って出口から手前に水が流れていて、ご先祖は水車小屋を持ち家業の米や
蕎麦などを挽いていたそうです。近所に水車小屋が他に2軒あったそうです。水が流れなく
なった後も井戸を掘って水車を回していたそうです。小さい頃この流れで洗濯したり炊事を
したり水遊びをしたりしたそうです。
  
出口下の弁天神社 掘抜完成と同時に造られたそうです            現在の東京電力放水路です            ・                
       水がいつまでも流れるよう祈ったのでしょう                かなりの勢いで水は流れていました(鹿留というとことまで引いて発電しているらしい)                    

船津口にある看板です
 
取水口は掘抜史跡館(有料、数百円)となっています。Pあり)                      中には入りませんでした


冬の忍野八海        



                  ひょうすけ
天保騒動と犬目の兵助

郡内(甲府盆地以外)は低い気温と火山性土壌のため農業には不利な
地域で、米穀は国中(くになか=甲府盆地)や他国に依存し、絹織物の
生産により生計を補っていた。
1833年(天保4)につぎ36年も天候不順による凶作と米穀の
高騰、さらに絹織物の値段の下落によって多数の餓死者が出る
惨状であった。
同年8月下和田村(現大月市)の武七(ぶひち)と犬目村(現上野原市)
の兵助がが中心となってある計画が進められていた。計画は「米・金を
借り受け農民に貸し付けること」、「米の買い占めを禁止し郡内」への
出荷を要請することであった。
村々に回文をして集合を呼びかけると500人から800人が集まった。
出発した一揆勢は途中で米を借り上げ笹子峠を越え国中を目指した。
騒ぎを聞きつけた貧窮民なども加わり甲府盆地東部に至る頃には
数千人に膨れあがり暴動化していった。
この後武七・兵助率いる郡内勢は引き上げることになったが、その他の
一揆勢は甲府城下へ、さらに国境を越え蔦木宿(長野県)に達し、
南部は市川・鰍沢み及んだ。一揆勢に対し甲府・石和・市川の
3代官所、甲府勤番では鎮圧できず諏訪高島藩・沼津藩(静岡県)
に鎮圧要請を行いようやく一揆勢は各地で捕らえられ自壊し鎮圧化
した。
これが天保騒動で打ち壊された家300軒余り、捕らえられたもの
600人以上、処罰されたものは役人を含め600人を越えた。幕府領
であっただけに幕府への影響は大きかった。
武七は獄死し、兵助は事件後秩父方面に逃走した。その後信濃・北陸を
へて四国まで逃れ、明治になって犬目村に戻り隠れ住んだといわれている。
その旅日記はは現在でも残されている。
(「山梨県の歴史散歩」P15より)

※比較してはいけないが私が興味を持ったのは同じ頭領(頭取)になった
武七よりは兵助である。一揆が思わぬ暴動となり武七は自首しその日の内に
獄死、従っていわゆる義民、一方兵助は逃げてしまった。何年か後故郷に
帰った兵助を村の人達はどのように見ていたのであろうか?「ひっそりと暮らした」
という文がいやに気になった。白い目で見ていたのだろうか?「日記」
も残されているというのでその内容も知りたかった。

山高の神代桜
2011,6,12撮影


犬目の兵助

犬目にある兵助の生家の看板です。
看板の裏は小さな駐車場、その裏は民家です。
兵助の生家は小さな旅籠を営んでおりました。
この民家に子孫の方が住んでいるのでしょう。
「義民」と書いてあることにホッとしました。
 
生家から東に300M程の所に小さな案内板があり、。その少し奥の墓地の
一角に墓はありました。「奈良家」の墓の一角です。
 
墓から見る現在の犬目です。緩やかな斜面に面しています。                     上野原市の公式ホームページ(観光の項)にある「兵助の日記」、「離縁状」。
              (クリック、PDFで見れます。見るにはアクロバットリーダーが必要です)
この日記は訪問する前上野原市役所に兵助のことを聞いた時
でた男性が教えてくれました。個人的に興味があるのか詳しかったです。

番所の記録では兵助は「磔死」(たくし=はりつけ)となっているようですが、
兵助は逃げてしまった。文中から察するに、覚悟の一揆であったが
途中から思わぬ暴動となって所期の目的を果たせず落胆していた所
武七あたりからお前は若いので逃げろと言われて逃げてしまった。
その後巡礼姿に変装し、新潟から北陸を通って広島・山口に出
四国に渡ります。四国八十八ヶ所巡りや伊勢詣でをしています。
逃亡中思うのは無宿人を温かく泊めてくれたこと故郷の妻子のこと
野宿や路銀の少ないこと、そのつらさが滲み出ています。農民にしては
学があり、旅先で泊めてもらう代わりに算盤や字をを教えたりしたようです。
ルートは分かりませんがその後千葉県の木更津に住み、こっそり犬目に
帰って会ったり、妻子を木更津に呼んで2人目の娘を生んだようです。
晩年は娘婿が経営する旅籠の裏方を、薪割りや風呂炊き?など
人目に付かないようひっそりと暮らしたようですが、村の人は誰一人
訴える人はなかったようです。
森武七
 
墓は最近移転され中央道の高架下、小さな公園のなかにありました。
自然石でできていて、戒名の右下に「森武七墓」と刻んでありはっきり読めました。

江戸時代の一揆などの首謀者への幕府の掟は厳しく、打首が多かったようです。
武七は自首しましたが情状酌量されるわけではなく、判決が出る前に”撲殺”か
他の方法で殺されてしまったようです。
旧甲州街道点描

恋塚(江戸から20里=82.4q)の一里塚。松が植えられていたようです。
説明看板が読みずらかったのは残念・・・・。(犬目の少し手前です)

(犬目の少し手前です)

野田尻宿にあります
 
野田尻宿は一番昔の家並みが残っているそうです

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勝沼のブドウ