梶原景時は源頼朝の信頼厚く重臣として活躍したが、頼朝死後
実権が執権北条氏に移るにつれて他の御家人と対立し、追われる
途中清水で幕府の命を受けた矢部氏などの地侍との戦いに敗れ、
梶原山で親子、家臣共々33名が自刃して果てた。丁度1200年の
ことであった。

それから160年後、8代目の孫景慶が駿府に赴任し、足利直義の
援助により矢崎山に龍泉院を建て供養塔の五輪塔と墓の宝篋印塔
を建てた。
龍泉院は1822年焼失しその後再建されたが、明治初頭廃寺となり、
昭和37年梶原堂がここに移転したという。

厨子の中には拳を振り上げた毘沙門天像とその左右に景時公と
頼朝公の位牌が安置されている。

景時の辞世
もののふの覚悟はかかる時にこそ
 人こそ知らぬ名こそおしけれ

梶原堂
静岡市清水区大内
2011,1,26撮影
※宝篋印塔は聞き慣れない言葉であるが広辞苑では